それは、平和という名の日常のひととき――

〜 クロス・フォー impression 1/3 〜



「あれ……?」
 高町なのははふと、傍らを通り過ぎようとした少年に見知った面影を見つけて振り向いた。頭の左右から高く結い上げた長い髪が、その動作に従ってふわりと揺れる。
 凍てつく空気もようやく和らぎ、道端の蕾にようやく春の訪れを感じ始めた頃である。偶然という名の、わずかにぬくもりを含んだ風が、長い髪の端先を少年の胸元に運んだ。
「痛っ」
 不意にぴんと張りつめた髪に、なのはが小さく顔をしかめた。
 そのわずかな抵抗に、少年が足を止めた。
「……おや。引っかかってしまいましたか」
 落ち着いた声で告げるその口調は、年若い少年のものにしてはずいぶんと大人びたものに聞こえる。なのはがわずかに顔を上げた。ゆっくりと振り返る少年を見上げる瞳に、驚きの色が混じった。
「……クロノ…………くん……?」
「……くろの? 申し訳ないが、どなたかと間違えているようですね」
 髪をほどこうとボタンに手を伸ばした少年が、少女の声にその手を止めて視線を向けた。なのはより少し年上であろうか。整った容貌は女性と見間違うほどだったが、無いにほぼ等しい表情が、落ち着いた雰囲気と相まってどこか近寄りがたいものを漂わせている。
「あ、違う。……す、すいませんでした。雰囲気がよく似ていたので」
 ふと我に返り、目の前の少年が全くの別人であることに気づいたなのはが、そう言ってぺこりと頭を下げる。もつれた髪はすでに少年によって解かれている。
 そんななのはを少年――結城樫緒が物珍しげに見つめた。
「僕に似ている……珍しいですね。そんな風に言われることはほとんど無いのですが。どんな方なのですか?」
 樫緒にしてみれば、何気なく漏れ出た一言であった。だが日頃から他人にまったく興味を持つことのないこの少年にそんな言葉を発させたことは、奇跡だと言っても過言ではない。無論そんなことを知る由もないなのはである。その問いかけに、ほんのわずかな時間頭の中で思惟を巡らせた後、楽しかったことを思い返すような、しかしどことなく寂しげな表情で言葉を返した。
「大切な人です。今は自分の国に帰ってしまっているけど……いつ戻ってくるのかもわからないけど……でも、約束したから……きっとまた戻ってきてくれるって、信じてるんです」
「大切な人……ですか」
 まだ幼いなのはからそんな言葉が出てくることが少し意外だったのだろう。目の前の少女に向けた樫緒の眼差しが、やや優しいものへと変わった。
 世の中には8歳にして純愛を育み、子供を産んだとんでもない親もいるのだ。それより年上のこの少女がそんな恋愛をすることも、決して有り得ないとは言えない。近親感ではないが、どことなく通い合うものを感じたのだろう。樫緒が、滅多に見せない笑みを浮かべた。
「……きっと戻ってきますよ。貴女がその想いを抱き続けていれば」
「そう……ですよね。ありがとうございます」
 なのはが、わずかに憂いを含んだ瞳で小さく笑みを浮かべた。
「そうだ、ひとつお伺いしてもいいですか」
「あ、はい。なんでしょう」
 唐突な問いかけに、おもわず背筋を伸ばしてしまうなのはだった。それほどに、この少年の声音は他人に令を下すことに慣れている感があった。
「この辺りに『翠屋』という洋菓子屋さんがあると聞いたのですが、ご存じでしょうか」
「あ、それわたしのお母さんのお店です」
「ああ、そうでしたか」
 それは丁度良かったと、樫緒が安堵の表情を浮かべた。これもまた普段ならばほとんど現さないものである。そんな自分にふと気づき、樫緒は興味深げになのはを見つめた。
 この目の前の少女には、知り合った人の警戒心を解かせる不思議な力でも備わっているかのようだ。こんなに他人とうち解けて話す自分の姿を、樫緒は今まで想像したことすらない。彼の姉が今の姿を見れば、きっと驚きの声を上げることだろう。
「よければご案内しますけど」
「いえ、それはご迷惑でしょうから、場所だけでも教えていただければ……」
 と、なのはの言葉に謝辞を返したとき、彼女の背後から近づく影に、樫緒は気づいた。よく見れば背後からも集まっており、わずかな時をおいた二人は、二桁にのぼる黒ずくめの男たちに包囲されていた。まるでそれが統一の制服であるかのように、黒の上下にサングラスで身を固めている。無論その表情は見えない。
「貴様が結城の次期総帥か。……ふん、ただのガキじゃねえか」
「……何者ですか」
 周囲を代表するように一人の男が前に出た。怯えたように半歩下がったなのはの前に出ると、樫緒は先程まで見せていた柔和な貌などどこかに置き忘れたように、冷めた瞳で男に視線を送った。
 その声にも表情にも、侮蔑の色が強く顕れている。
 たとえ年上だからとはいえ、未成年を多数で囲い込み、あまつさえ初対面で他人をガキ呼ばわりするような輩に対する敬意を、この少年は持ち合わせてはいない。
「悪いがおとなしくしていてもらおうか。なに、殺しはしない。しばらくの間眠っていてくれればそれでいい」
 男が笑いを浮かべることもなくそう告げた。どうやらこの男が周囲の男たちのまとめ役であるようだ。
 だがこの男も、そして誰であるかはわからないこの男を雇った輩も、たいして頭が良いわけではないらしい。目の前の男が、なにをするにしても物理的暴力によってのみ解決をはかろうとする単純な輩であるだろうことを、樫緒は瞬時に見て取った。下で動く者がこれでは、上に立つ者の器量も計り知れて当然である。もっとも樫緒にとってみれば、そんなことは考慮すべきことの範疇にも入らない。
「どこの誰に頼まれたものかはしりませんが、くだらないことを考えずに、そのまま引き返すことですね」
 にべもなくそう告げて、樫緒はなのはの手を引いて歩き出した。周囲の男たちの存在などまるで無いかのように。
「悪いが、そう言うわけにもいかなくてね。これも仕事だ」
 ニヤリと軽い笑みを浮かべて二人の前に立ちふさがった男を筆頭に、他の男たちも二人を取り囲むようににじり寄った。そのうちの幾人かは、手をポケットに差し入れている。
 そんな男たちを、樫緒が冷ややかなまなざしで睥睨した。
「まったく。どうしてこう馬鹿な輩が多いのか……」
 くだらない、という声を表情で現す樫緒だった。
 そんな、周囲を怪しい男たちに囲まれてもまったく怯まないどころか、他の誰よりも落ち着いた雰囲気を保ったままの少年を、なのはが不思議なものを見るように見つめていた。
 ――この少年は、怖くないのだろうか?
 正直言えば、なのは自身は先程から怖くてたまらない。だが、繋いだ手から伝わる微かな温もりが、辛うじて泣き崩れることを押しとどめていた。まだ会って間も無いというのに、この安心感はどこから来るのだろう。……よもや、クロノに似ているからだというわけではあるまい。
「チッ、構うことはない。さっさと終わらせてしまうとしよう」
 樫緒の挑発ともとれる言葉に触発されてか、男たちの一人が大股で二人に歩み寄った。その手には、ポケットから取りだした煙草大の黒い箱が握られている。一瞬、その端に青白い火花が散るのを二人は見た。スタンガンだ。
 男が無造作に樫緒の手を取り、首筋にスタンガンを当て――ようとした。
 ボキリ。
「ぐぎゃあ!」
 その瞬間、鈍い音とともに伸ばされた男の腕が有り得ない方向に折れ曲がり、自らの首にスタンガンを打ち込んでいた。青白い火花をBGMに男の身体が痙攣のダンスを踊り、そのまま気を失って地面に倒れ込んだ。
「そんなもので僕をどうこう出来ると思わないことですね。身をもって自らの愚かさを思い知りなさい」
 侮蔑と冷酷を露わに、樫緒が言い捨てた。
「このっ――!」
 続けて反対側から、別の男が樫緒の背中に蹴りを放った。空手の有段者だろうか。筋肉の固まりのような足から放たれたその蹴りは、下手な木材などはいとも容易くへし折るだけの威力と速度とを持っていた。だが――
「なっ……」
 男の表情が、驚愕の色に染まった。
 わずかに振り返った樫緒が、ひょいと指を差し上げただけで男の蹴りを受け止めたのだ。わずか一本の人差し指が、鋼のように鍛えた蹴り足を支えている。無論、男が力を削いだ訳ではない。それどころかそのまま引くことも出来ず、冷や汗とも脂汗ともつかないものが男の背中を流れた。
「……人の背中をなんだと思っているのですか」
 言いざま、とんっと軽く指を弾く。すると男の身体はまさしく弾かれた独楽のように回転しながら吹き跳び、他の数人を巻き込んで地面に倒れ伏した。
「き、貴様はいったい……」
 そのあまりにも奇異な現象に、周囲の男たちに動揺の色が走る。
 狼狽する男たちを、だが代表格の男の声が止めた。
「そこまでだ。手品の時間はもう止めにしてもらおうか」
 いつの間に移動したものか。
 男の姿はなのはを挟んだ反対側にあり、その手に持った大振りのナイフが、なのはの首に沿って置かれていた。
「少しでも動けば、この娘の命は無い」
 ひたり、と冷たい感触がなのはの首に触れた。



 樫緒がなにかことを起こせば、なのはの首は即座に断ち切られるに違いない。その恐怖に声も出ないなのはが、自らの命運を握る少年を見つめた。
「……下衆が」
「なんとでも言うがいい。こっちも仕事でね。……よし、取り押さえろ」
 顎で指示された男たちが、ようやく安心したように樫緒の腕を取った。
「僕に……触るなっ!」
「――!」
 樫緒が振り解くように腕を振るった。
 瞬間、なのはは首をすくめて目を瞑っていた。
 無意味とわかっていても、来るべき痛みを堪えようと。
 痛みが一瞬で終わってくれることを無意識に祈りながら。 
 一秒。
 二秒。
 三秒。
 痛みは――無い……?
 物音すらしない。
 どうしたことだろう。
 なのはが、恐る恐るうっすらと目を開いてゆく。
 目の前には、少年の姿があった。さっきと変わらない位置で、その表情はやっぱり薄い。
 首筋にわずかに触れられていた冷たい感触は、いつの間にか消え失せていた。
「……大丈夫ですか」
「あ、はい……なんとか」
 がくがくと震える膝をなんとか押しとどめ、なのははゆっくりと周囲を見回した。
 あの男たちはどうしたのだろう。
 と思うまでもなく、男たちはまるで二人を中心として吹き飛ばされたように周囲のあちこちに倒れ込んでいた。あるものは気絶し、あるものは痛みに呻き、共通することといえば、そのいずれもがすでに戦闘不能に陥っていることだろう。さきほどなのはに刃物を突きつけた男はといえば、もっとも遠いところまで吹き飛ばされ、道端のごみ置き場に頭を突っ込んでぴくりとも動かなかった。さすがに死んではいないようだが。
「まったく、困ったものです」
 ぽんぽんと服についた埃を払い落としながら、樫緒が悠然とした面もちで呟いた。
 彼にしてみれば、少女の前で凄惨なところを見せるわけにもいかず、かなり力を抜いたつもりであったが、結果的にはあまり変わらなかったかも知れない。なのはに刃物を突きつけたという行為が、男たちの命運を尽きさせたのは否めないことであろう。
「僕の所為で怖い思いをさせてしまいましたね。すいませんでした」
「あ、いえ……その、ちょっと怖かったけど、でも大丈夫です」
「それならば良いのですが。……では、すいませんがお店まで案内していただけますか。またこのような輩が襲ってくるとも限りませんから、お送りします」
「えと、それはいいんですけど……でもこの人たちは?」
 先程の行為からもあまり良い人たちとは思えないが、さすがにこのままにしておくのは忍びないのだろう。なのはが困ったような顔で訊ねた。
「ああ、気にしなくてもいいですよ。そのうち担当の者が来ますから」
「はあ……」
 何事も無かったように、やっぱり落ち着いた口調でそう言った樫緒に、なのはがあいまいな表情で苦笑してみせた。
 そのまま、樫緒に引かれた手に倣って、躊躇いがちに足を踏み出した。
 行く先の空は青い。きっと明日も良い天気だろう。
 明日空を見上げるとき、もしかしたら無表情で少し変わったところのある新しい友達が隣にいるのではないかと、わけもなくなのははそう思った。
 世はなべてことも無し。
 平和なひとときであった。
 ……
 ……
 ……たぶん。


......to be continued ”クロス・フォー”


 クロス・フォーを読んでいただいている皆様、こんにちは。上記はクロス・フォー発行前の2002年2月(クロス・フォー発行は2002年8月)に、オンリー即売会で発表した短編のうちの1/3にあたります。
 クロス・フォー改訂版(2002年12月発行)には《余章》として本文中に含めてあります。 初版本のみお持ちの方は、改訂版には《終章》と《エピローグ》の間にこれが入ってるんだなー、と思っていただければ。なお文章の修正等は一切行っていません。
 なお登場人物ですが、「高町なのは」については『とらいあんぐるハート3』を。「結城樫緒」については『DADDY FACE』が原作になりますのでそちらをご参照いただければ幸いです。

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