それは、日常の中の非日常――

〜 クロス・フォー impression 2/3 〜



「お待たせしました」
 来店を告げる小さなベルの音を響かせて、一人の女性が姿を見せた。ドアを巻いた風が肩口までの長い髪をふわりと揺らす。こぼれた髪に手を入れ背中に流すと、その女性はまっすぐに一番奥の席へと進み、自分を待っていた人物に軽く会釈した。
 顔を上げた待ち人に相対する位置に腰を下ろす。切れ長の双眸が、やや険しさを含んで正面に座る人物に向けられた。
「こちらこそ、ご足労をおかけしました」
「いえ、ここは地元みたいなものですから」
 待ち人の声に穏やかなものを感じ、ほっと険しさを解いて軽く微笑ったのは、神咲薫であった。
 ここは海鳴町にある喫茶店『翠屋』である。注文伺いに来た顔なじみのウェイトレスに紅茶とケーキを頼み、しばらく仕事の話をする事を告げる。フィアッセや桃子はどうやら店内にはいないようだった。
「こうして向き合うのは初めてですね。改めて……神咲一灯流、神咲薫です」
 目の前にケーキのセットが運ばれたのを機に、薫が挨拶した。
「そうですね。お互いに名前くらいは聞いているかもしれませんが。……『教会』に所属するシエルといいます。よろしく」
 ぺこりと、眼鏡の女性が会釈を返す。友好的に見えるが、その目は笑ってはいない。
 そしてそれは、薫にしても同様だった。
 薫が彼女について名前以外に知っていることはと言えば、自分より年下にしか見えない彼女が、『教会』の異端審問を専門に行う『埋葬機関』と呼ばれる部署に所属していること。そしてその代行者としてなにかしらの要求を告げるために、今自分の前に姿を現していることくらいだ。
 対するシエルもまた、薫について知っていることは少ない。
 主に日本国内において、邪鬼あるいは魑魅魍魎などと呼ばれる人外の化け物を退治する退魔師の一人であり、その中でも有数の――すなわちより強力な力を持った一族に連なる者であるということ程度だろうか。更に日本という国に限定して言えば、現時点で十本の指に入るであろう実力と経験の持ち主であるはずだ。
 シエルの立場からすれば、商売敵でありながらまったく異分野で活動する同業者でもあるという、微妙な関係にある。
「わざわざお呼び立てしてしまったことですし、早速ですが本題に入ります」
 眼鏡の奥の瞳が、鋭いものとなって薫を射抜く。だが薫はそれに臆した風もなく頷いた。彼女の告げる内容はすでに胸の内で予想している。
「あの城の件ですが……あなた方には一切手出しをしないでもらいたいのです」
 あの城とは、数日前にこの町に突如として出現した謎の古城のことであろう。それ以後、謎の殺人事件が連続している。
 ちまたに流れている噂にのぼる犯人像は――吸血鬼。
 なにも知らない人々であれば、単なる噂に過ぎないとせせら笑うだけであろう。
 だがこの場にいる二人は、それが真実であることを知っている。
「……この町で今、何人もの人たちがすでに殺され、あるいは行方不明になっている。その現状を見過ごせと?」
 薫の双眸に、ふたたび険しいものが浮かんだ。まっすぐに見つめる瞳が、シエルのそれと相対する。
「あなたの退魔師としての能力の高さは認めます。ですが今回の件はあなた方の対処すべき問題ではない、と申し上げているんです。”あれ”は普段あなた方が退治し、あるいは昇天させているような輩とはまったくの別物です。……それとも、あなたに”あれ”を殺すことができますか?」
 シエルがやんわりとした口調で、しかし瞳には一片の笑みも込めずに言った。それは薫の質問に対する返答ではなかったが、先に問うた側は、シエルの最後の問いかけに返す言葉を導き出せずにいた。
 普段薫が使用している退魔の技は、人々の邪気が集まったもの、あるいは過去に封印された想念が実体化したような、いわば実体のない相手に対するものである。人が”それ”と化した存在に対して使用したことは、数えるほどもない。技の効力については敢えて確認すべきことはないが、シエルの言っていることはそれとは別次元の問題である。
 すなわち――人を殺せるかどうか、の判断を下されていると言っても過言ではない。
 単にかつて人であったか、今も人であるかの違いだけだ。本来薫たちが相対するものとは、確かに別物であろう。
「それは……わからん。だけど、このまま見過ごすわけにはいかん」
 口元に躊躇いを伺わせながら、薫が呟いた。口調に国元の訛りが出た。
「そのために私が来たんです。ですから、この件に関してはすべて私に一任していただきます。……まあ、退治を終えるまでに何人か『死者』たちの犠牲になるかもしれませんが、その時は運がなかったと思ってあきらめてもらいましょう。……もちろん、そういう人たちを護るというのであれば、別段止めはしませんので」
 けろりと、顔色一つ変えずに告げるシエルだった。それはつまり、犠牲者など何人出ても構わない。ただ目標を倒せればそれでいい、ということなのだろう。その口調はどこか酷薄な印象を受ける。
 だがこの町に愛着のある薫にしてみれば、そういうわけにもいかない。人々が平和に安全に暮らせる世界を保つのも、彼女たち一族に課せられた使命だし、なによりこの町には薫の家族とも呼べる人たちが暮らしているのだから。
 ただ彼女の言葉に正しいものが含まれていることもまた、事実である。
 薫に、吸血鬼を倒すことは難しい。
「……わかりました。でしたら、私は町の人を護ります」
 だから。
 薫はきっぱりとそう告げた。
 攻めるばかりが戦いではない。世の中には守るための戦いもある。そしてこの町には、その思いをかけがえのないものとして抱いている兄妹がいる。
 薫はふと、脳裏に恭也の面影を思い浮かべていた。
「……ではそういうことで、難しいお話は終わりにしましょう」
 不意に表情を和らげたシエルが、ポンッと手を打って微笑んだ。そして、少し離れて立っていたウェイトレスに「さっきと同じものを一つ」と声をかけた。
 どうやら薫が来るまでにすでになにかしら注文していたらしい。
 うきうきと、楽しげなシエルである。雰囲気を変えるために追加注文したのだとばかり思ったが、どうやらそれだけではないようだ。逆に、注文をしたいが為に話を終わらせたようにも見受けられるのは、気の所為だろうか。
 しばらくして、ウェイトレスがやってきて彼女の前に注文したものを置いた。
 それを見た薫が軽い驚きの表情を浮かべる。
「……どうかしましたか」
 上目遣いに薫を見ながら、皿の上にあるそれをシエルが小さく切り分けて口へと運んだ。
「それ……美味しいですか?」
 つい、その言葉が口を出た。どうしても気になってしまったが故に。
 返答は――恍惚にも似た表情だった。
「そりゃあもう。こんなに美味しいケーキがあるなんて、今まで知りませんでした」
 幸せそうな表情でうっとりと告げるシエルを眺めながら、薫の心中はやや複雑であった。
 彼女が今食べているのが翠屋が数日前に発表した新作……というよりは試作品だということを、薫は知っている。甘いものが苦手な孝行息子のために、桃子が試しに作ってみたものだということも。
 先日店に寄った際に勧められて食べもしたのだが、その時の味はといえば……桃子の作ったものだけに決して不味くはないが、食べる者の嗜好を選ぶであろうことはまず間違いないと思ったものだ。
 そして今、目の前にそれを実に美味しそうに食している人がいる。
 薫の心境はいかばかりのものであったろうか。
 ふと横に目を転じれば、少し離れてこちらを見ていたウェイトレスも薫と同じような表情を浮かべていた。きっと考えていることも同じだろう。
 その新作の名は――カレーケーキ。
 スポンジからクリームに至るまでカレーの風味をひたすら詰め込んだ、ある意味ケーキの常識をこえた作品である。
 余談ではあるが、このケーキは限定生産品で最大でも毎日1ホールしか作らない。悲しいことに――というか当初からある程度予測は出来そうなものなのだが――酔狂な客が注文する以外はほとんど見向きもされないため、これしか作れないのだ。よほど気に入っているのか、ここ一週間ほど毎日作り続けているらしいが、いつまで作り続けるのかは店長のみぞ知ることである。
 だが今日に限って言えば、あればあるだけ無くなっていたことだろう。ウェイトレスの表情から察するに、おそらくシエルは1ホールのほぼ総てを平らげたに違いなかった。
「あ、すいませーん。このケーキもう一皿お願いしますー」
 再び、店内に追加注文の声が響く。
 薫の目には、とてもとても非日常的な光景に、それは映った……。




......to be continued ”クロス・フォー”


 クロス・フォーを読んでいただいている皆様、こんにちは。上記はクロス・フォー発行前の2002年2月(クロス・フォー発行は2002年8月)に、オンリー即売会で発表した短編のうちの2/3にあたります。
 クロス・フォー改訂版(2002年12月発行)には本文に挿入される形で含まれています。 初版本のみお持ちの方は、改訂版には《第二章》の《4》と《5》の間に(つまりこれが《5》になって)入ってるんだなー、と思っていただければ。なお文章の修正等は一切行っていません。
 なお登場人物ですが、「神咲薫」については『とらいあんぐるハート2』を。「シエル(先輩)」については『月姫』が原作になりますのでそちらをご参照いただければ幸いです。

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