クロス・フォー The Second 未収録(?)原稿 01



 ごくごく普通の、当たり前の一日。
 遠野家の使用人である翡翠は、日頃慣れた屋敷内の掃除を行っていた。
 濡れた雑巾を手に、大きな窓を一枚一枚、丁寧に拭いてゆく。これだけ丁寧に拭いていれば時間などあっという間に過ぎてしまいそうなものだが、翡翠の動きは簡潔かつきびきびとしたもので、後に汚れの一欠片も残さない丁寧さでありながら、次々と隣の窓へと移っては作業を繰り返していた。
 今翡翠が掃除をしているのは、遠野の屋敷の中でも普段ほとんど使われることのない、奥まった一角にある廊下だった。裏庭に面した側には大きな窓がいくつも並び、反対側には客間となっている洋室の扉がこちらもいくつも並んでいる。それらの全ては今、使用されないままになっている。
 もったいないと言えばなんとももったいない話だが、ここは昨今の日本の住宅事情をせせら笑うほどの、大きな屋敷なのだ。外界の全てを拒絶するような高い塀に囲まれた、巨大な敷地と古風な洋館。明治維新に代表される近代日本を体現するような屋敷だった。しかもそんな広い建物に住んでいるのは、年若い男女が四人きりである。自ずとそういった空白となる場所が生じることも、仕方のないことであろう。
 しかし、だからといって掃除の手を抜く翡翠ではない。視線を動かせば、曇り一つ無い窓と、塵一つ落ちていない廊下がずっと向こうまで長く続いている。今日の彼女の仕事の成果だ。残っている窓はあと二枚。廊下はそこで行き止まりになっており、突き当たりとなる正面には大きな肖像画が飾られている。かつてのこの屋敷の主人──槙久を描いたものだった。
 これまでかかった時間と残った手間の算段をしながら、翡翠は目の前にある窓ガラスの掃除に取りかかった。大きな窓の外を眺めれば、無数の木々が立ち並ぶ裏庭になっている。視界の端には、姉である琥珀の作る家庭菜園があった。彼女は今、あと少しで時間となる昼食の用意をしている頃だろう。残る二枚と廊下の掃き掃除を終えれば、ちょうど良い頃合いのはずだ。
 翡翠はたゆたう思考に歯止めをかけると、再び仕事に集中した。 そして最後の一枚──長く伸びた廊下の一番奥にある窓もまもなく拭き終わろうという頃、不意に背後から声がかかった。
「翡翠、ご苦労様」
 その声にハッと振り返ると、彼女の主人である少年が踏み台の側で彼女を見上げていた。
「志貴さま。…おはようございます」
 もう昼になる頃合いだが、翡翠は踏み台を下りると一礼してそう挨拶した。昨晩遅くまで起きていたらしく、志貴の起床は今日も遅かったのだ。……翡翠が何度起こそうとしても起きなかったほどに。
「おはよう。…って言っても、もうお昼だけどね。起きられなくて、ゴメン」
 表情に出てしまっていたのだろうか。小さく苦笑を浮かべる志貴に、翡翠は内心慌ててしまう。
「いえ。今日は秋葉さまが朝からお出かけでしたから」
 是が非でも起こす必要まではなかった、ということか。
 志貴の妹であり、現在この家の当主である秋葉の命で、志貴も基本的には毎朝食事をともにすることになっている。もっとも今日のように遅れることがしばしばなので、流石の秋葉も今では半ば諦めているようだったが。
 その秋葉はといえば、今日は休日だが仕事の関係で朝も早々から車で出かけてしまっている。予定ではまもなく戻ってくる頃合いだ。もし仮に昼食時にも志貴が一緒でなければ、残る一日彼女は不機嫌そのものになるところだったろう。それが杞憂に終わることは、翡翠にとっても喜ばしいことであった。
 それにしても──と翡翠は思う。
「志貴さま、どうしてこのようなところに…?」
 ここは屋敷内でも一番他人との遭遇率が低いかもしれない場所だ。廊下の先で掃除をしている翡翠を見かけ、寄ってきたのだろうか。
「ああ。琥珀さんのところに行ったら、もうすぐ食事だって言うから、一応翡翠にも伝えておいてくれって。……それにしても、こんなところあったんだな、この家」
 長い廊下に連なるドアを見やり、志貴が嘆息にも似た声を漏らした。どちらかといえば、驚くというより呆れているといった口調だったが。
「このあたりは、槙久さまがご存命の頃は、ご親族の方々がお泊まりになった際に使われることが多かったものです。秋葉さまはあまりお使いになろうとしません…」
 そう言って、言葉を濁すように口籠もる。翡翠の言っているのは、志貴が来る少し前に秋葉が追い出したという人たちのことだろう。そういった人たちが使っていた部屋だけに、積極的に使用するということも無いのかもしれない。翡翠自身も秋葉と同じようにあまり良い印象は持っていないが、だからといって使用人としては客人──もはや訪れることもないだろう人々だが──の悪口は言えない、といったところか。
「なるほどね」
 相づちを打って、志貴は数歩歩くと手近な扉を開いた。どこかホテルの一室を思わせる、生活感の乏しい部屋だ。とはいえそこはそれ、遠野家の客間である。ホテルといっても一流ホテルのスイートクラスだ。部屋が広いことはもちろん、落ち着いた色調の壁紙や調度などの端々に品の良さが漂っている。
「へえ、こりゃすごい」
 モデルルームのようなそれを少しの間見て歩き、志貴は再び廊下に戻ってきた。そして首を左右に振り、壁に並ぶ扉を確かめるように眺めてから、翡翠を振り返る。
「部屋の間取りは、みんな同じなの?」
「はい、この並びにある部屋は全て同じ間取りになっています。……が、何かありましたか?」
 問いかけながら、並んだ数を数えるように端から端まで扉を見ては、なにやら考え込むような素振りを見せる志貴に、翡翠が訝しげなまなざしを向けた。
「うん。なにかあるというより、なにか足りない気がするんだけど…」
「足りない?」
 志貴の言葉を繰り返し、翡翠もまた志貴に倣って壁に並んだ扉を順々に見ていった。遠く角になったところから、ひとつ、ふたつ、みっつ……。声に出さないまでもその数を数えつつ、目の前の扉を過ぎて廊下の突き当たりまで視線を動かす。
「…あ」
 そうやって数えていったとき、翡翠もまた志貴が言わんとしていることに気が付いた。
「だろ? こうやって見ていくと、奥にもう一つくらい部屋があってもいいと思わないか?」
 再び室内に入り奥の壁を調べていた志貴は、翡翠の様子を見て言った。
 部屋の大きさを考えたとき、この一番奥にある部屋は突き当たりから離れすぎていて、どこか不自然に思える。並んでいる全ての部屋の間取りが全て同じだとすれば、ちょうどもう一つくらい部屋があってもおかしくない。
「もしかして、この辺に隠し扉があるとか……そんなこと、翡翠は聞いていないか?」
 志貴は扉の間隔を見ながら、次に扉があれば並ぶだろう辺りの壁を調べながら、志貴が背後の翡翠に尋ねた。
「いえ、存じません。もし仮にあったとしても、秋葉さまや姉さんも知らないと思います」
「まあ、そうだよなぁ。そんな都合良く見つかるわけ…………あ」
 翡翠の淡々とした声に軽い失望のため息を吐きながら、志貴は壁に手を添えたまま力無く戻りかけた。と、壁に触れていた指先が微かな違和感を捉え、足の動きを止めさせた。
「…志貴さま?」
 そんな彼の動きに、翡翠が敏感に反応する。
 志貴は壁に手を這わせ、まっすぐ腕を上の方へと伸ばしてゆく。
「ここに、溝みたいなものがある。壁の色とかでうまくカモフラージュしてるけど、これってやっぱり──うわっ」
「志貴さまっ!?」
 なにかを言いかけた志貴の姿が、突然回転扉のようにくるりと回った壁の向こうに消える。慌てて駆け寄る翡翠だったが、時既に遅く壁は既に元の姿を取り戻し、いくら叩いても動きそうになかった。
「志貴さまっ、志貴さまっ!」
 翡翠の必死な呼びかけに応える声は、何もない。
 ただ残されたのは、呆然とした面持ちの翡翠と、ほんの数分前と変わらぬ遠野家の屋敷だけだった……。



 クロス・フォーを読んでいただいている皆様、こんにちは。上記はクロス・フォー2(名称未定)用に書いていた原稿のうち、おそらく使うことはないだろうと思われるものを選んで2006年夏コミで発表したものです。
 月姫キャラ登場の導入部分ですね。翡翠のこういう姿は素直に想像できてしまいます。

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